熟議について

昼梟

2010年09月18日 20:34

今日、所属する某団体で、熟議という手法を取り入れての会合が行われた。

熟議の定義については、http://jukugi.mext.go.jp/をご覧頂きたい。

本来の熟議では、WEBを用いた意見交換の方法なども示されているが、今回はファシリテータ(進行役)を中心に5~6名のグループに分かれてのフリートークとなった。

つまりは、「大人の学級会」なのだそうである。

学級会と言えば、少数意見を大事に、みんながきちんと発言する、ことが理想。

数々の学級会で、少数意見を大事にしながら結局多数決がものをいう切なさなども味わってきたが、とにかくひとりひとりが当事者意識を持って発言し発言を聞くこと、結論を出すことよりも意見を出し合うことが重視されている。

そういうことである。

多少の脇道や突拍子もない意見が新しい地平を開いてくれる可能性もある。気がついていなかった課題や解決方法が見えてくる、あるいは突然生まれてくることもある。なにより、参加している気分、責任を果たしている気分になれる。もうちょっと頑張ろうかな、という気分になる。

とはいえ、当事者意識が高まる、貢献感が深まるからという理由で、熟議だけをやっていれば物事が進むかというと・・・たぶん全く進まない。

だから、熟議の場と、熟議の中からヒントをつかみ出し課題と解決策を整理して明文化し提案に結びつける場と、提案を具体策として協議する場の3つが必要なのだと思う。できれば、明文化する立場と熟議の立場は離れていた方が良い。

組織が拡大していく場合、仲良しクラブを脱して永続的な内部の人にとってまたは外部の人にとって責任を持つ組織となっていく場合、「欠伸が出るけど避けて通れない」部分が大きくなっていくのは宿命のようなものかもしれない。

この宿命ばかりが組織の重要な課題となって「ツマラナイ」思いばかりがたまっていけば、組織は疲弊する。熟議などと大上段に構える必要はないが、ぶっちゃけ話そうよ、という機会を適宜持つことは組織の風通しをするのに役に立つものだと思った次第である。

大きくなってしまった組織でぶっちゃけ話をするのは難しいから、それはそれで工夫が必要ではあるが。

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